「赤穂の天塩」の歴史

赤穂の伝統的な塩づくりの継承

江戸時代から、播州赤穂の東浜塩田(ひがしはまえんでん)では「差塩(さしじお)」という"にがり"を含ませた塩づくりの手法(差塩製法)を伝統としており、当時から「赤穂の塩」として全国に名を馳せていました。「株式会社天塩」は、この赤穂の「にがりを含んだ塩」づくりを大切にし、日本食文化が築いてきた伝統の味わいを守り続けています。

伝統の塩づくり「塩田」の廃止と自然塩運動

昭和40年頃 赤穂東浜塩田の風景

赤穂東浜塩業組合昭和46年、高度成長のまっただ中、政府は「塩業近代化臨時措置法」を国会に提出し、長い歴史をもつ瀬戸内海などでみられた「塩田による製塩法」を廃止し「イオン交換膜製塩法」による工場大量生産方式を世界で初めて採用実施する方針を明らかにしました。土地と労力を要する塩田を廃止し、効率のみが追求された、“サラサラとした高純度の塩”がつくられました。代表的な主な商品は塩事業センターが販売している「食塩」です。

元禄の塩づくり風景

我が国の塩田でつくられた塩は平安時代より約1200年の歴史を有し、日本の食文化の根源となるものといっても過言ではありません。さらに、海水に含まれているにがり成分は生体にとって、極めて重要な役割をしています。

そこで「昔塩田でつくられていた当時の塩」を再現するために自然塩復活の消費者運動グループが立ち上がりました。運動グループは、5万人の署名を集め、政府に請願書を提出しました。その後、昭和48年6月「特殊用塩」として認可を受けることができました。

そして、忠臣蔵で名高い、古くから塩の産地として知られる兵庫県赤穂市の赤穂化成(株)と共同開発を始めました。赤穂化成(株)の前身は、江戸時代から塩をつくっていた赤穂東浜塩業組合です。

本当の味を求め、健康を願う人たちに天然の恵みを届けるべく、作られた塩が「赤穂の天塩」です。